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プリパラに見る世界の対称性

はじめに

 小生はアニメ版を78話ほどしか観ていない。その上での考察であることをご了承願いたい。

 

『プリパラ』界隈を見渡していると、ざっくり言って女性ファンはゲーム派、男性ファンはアニメ派という傾向にあるように思える。そりゃあの筐体を男がやるのはかなり敷居が高いのでそうなるのもやむなしと言ったところだが、3DS版やSwitch版もあるのだが男はあまりゲームをやらず専らアニメという者が多いと思う。ゲームをやっているのは女性が多い。

 このことからもやはり『プリパラ』や『アイカツ』は女児の変身願望を具現化したコンテンツであり、そこが『ラブライブ』や『アイマス』との違いであると言えよう。ゲーム版では自分好みにカスタマイズしたマイキャラをつくることが出来るからだ。対して男は出来合いのキャラを愛でる。出来合いを溺愛である。女児やプリパラおばさ…お姉さんはマイキャラに自らを重ね合わせて見るのだろう。ゲームの中ではアイドルになれる…魔法少女ものとアイドルものは女児の変身願望を叶える夢のコンテンツなのだ。
 変身願望という点では『プリパラ』においては南みれぃ、『アイカツ』においては藤堂ユリカがとりわけ顕著であることは言を待たない。この二人はプライベートとアイドルでいるときのギャップが極めて激しく、とりわけ『プリパラ』のみれぃのそれは他の追随を許さない。これは『プリパラ』を象徴する事象である。
 作品タイトルにもなっているプリパラとはテーマパーク、アミューズメント施設の一種で、年頃の女の子の元にどこからともなく「マイチケ」と呼ばれる招待状が届き、パラ宿にあるプリズムストーンという店からプリパラに入場することが出来る。そこでは女の子は誰もがアイドルになれる。現実世界でどんなにみじめであっても、プリパラでは理想の姿でスポットライトを浴びて輝く事が出来るのだ。そういった点で現実世界とプリパラはまったくの別世界であり、対照的存在である。
 小生はプリパラはネット空間を隠喩しているのではないだろうかと思う。
 らぁらたちが住んでいる家や学校、街がある世界を便宜上「現実世界」と呼ぶことにする(もう呼んでいるが)。
 南みれぃがマイチケと間違ってマイタケをスキャンしようとする場面はプリパラ屈指の名シーンであるが、この時らぁらは「委員長それマイチケじゃなくてマイタケだよ」と言っている。らぁらは現実世界ではみれぃのことを「南委員長」または「委員長」と呼んでいるが、プリパラでは「みれぃ」と呼んでいる。同様にみれぃはらぁらのことを現実では「真中さん」、プリパラでは「らぁら」と呼んでいる。プリズムストーンでマイチケをスキャンしプリパラチェンジするまでは現実世界で、プリパラチェンジしてからがプリパラへ「ログイン」したということであろう。少し大仰であるがプリパラチェンジはログイン作業なのだ。そしてらぁらたちはリアルとネットを区別して考えられるネットリテラシーの持ち主だと言える。
 本来女性しか入ることが出来ないのに、男でもヤギの着ぐるみを着ればヤギ専用ゲートからの入場を許してしまうプリパラのセキュリティはガバガバであるが、実際の各種ウェブサイトも不正アクセスが絶えない現状を反映している。
 ログインしたあとは自分の理想の姿に生まれ変わることが出来る。先述したみれぃやいろはなどは現実とは全く異なる外見となり(みれぃは度々検事アイドルとして現実と変わらない見た目でプリパラに現れており、現実の姿に失望しているというわけではない)らぁらも髪や背が伸び若干外見が異なる。自信の姿が変わらない者もプリパラ内でのみ着用出来る服装(コーデ)に変わり、かつライブ中にサイリウムチェンジなどでさらに煌びやかな衣装にチェンジする。
 ネット上では人は何にだってなれる。現実世界では底辺でもネット上では有識者にもギャングにもアーティストにもなれる。もちろんアイドルにもなれる。プリパラも女の子は誰でもアイドルになれる空間だ(ただしかなり厳しい序列はあるが、この辺もネットに通じる)。その一方でプリパラに出入りしているガールズ全員がデビューしているというわけでもなく、観客、ファンに徹している者も多い。ROM専である。或いはフォロワーである。
 そして現実世界でつながりのある(パラ宿のプリパラのアイドルでストーリーに絡んでくる者は何故かほぼ全員私立パプリカ学園の生徒や関係者である)者同士であっても、プリパラ内で出会った(或いは逆にプリパラ内で初めて会い、その後現実で再会した)ときはその本人であることに気付かないのである。みれぃやいろはのように外見が別人ならともかく、変わらない者でも何故か名乗られなければ気付かないことになっている(プリパラ随一の強烈キャラ黄木あじみという例外はいる)。それどころか安藤はヤギの着ぐるみを着てヤギに偽装し、プリパラ内に潜んでいたわけだが、彼もまた顔が露出しているにもかかわらず誰も不審がらず、ヤギとして認識しているようなのである。これも現実とは切り離して別人でいられるネットと同じだ。匿名掲示板やツイッターで絡みのあった者がもしかしたら現実での知り合いかも知れないが、それは知ることが出来ない。

 

 

 


 さらに、小生は未だ未見であるが、後に真中のんがトライアングルとしてデビューした際にはトライアングルの三人はすべてのんが演じていたというではないか。副垢である。日本は世界で唯一フェイスブックよりツイッター人口の方が多い国だと言うが、それは副垢を持つ者が多いという事情もあるのではないかと思う。小生も現時点で四つのアカウントを持つ。TweetDeckを使えば多数垢管理も容易であり、のんのような一人三役の離れ業も不可能ではないだろう。
 極めつけはファルルの存在である。小生はファルルは初音ミクのアンチテーゼ的なものだと思っているが、初音ミクはしばしばバーチャルアイドルなどと呼ばれるようにネットの中でこそ生きられる仮想の存在である。ファルルもまた現実世界を持たず、プリパラの中に住む。七〇話では夕方になりプリパラが閉園する時間になってみんなが現実世界へ帰っても、ファルルだけはプリパラに残る描写がされていた。初音ミクのようにネットの外には出られず実体を持たないのであろう。
 71話はらぁらがリア友もネッ友も大事にし両立させたらぁららしいエピソードである。またネットばかりじゃなくてリアルを大事にしろよという主に大友へ向けたメッセージが込められているのだろう。
 73話ではめが兄ぃがパラ宿からプリパリへと移動するのにだいぶ時間がかかっている。これはウエブ上をアクセスすればいいというのではなくサーバー間の移動をしているのであろう。めが兄ぃほどのソフトウェアなら何百GBクラスになってもおかしくはない。
 奇しくも『プリパラ』が始まった2014年はスマホが普及し始め、ネットやSNS人口が増え始めた時期と符合する。らぁらの言う「みんな友達、みんなアイドル」 が現実味を帯び始めた時期なのだ。
 しかしながらそこに怪盗ジーニアスが現れる。荒らしである。ユーザーが投稿できるサイトには荒らしが付きものである。ジーニアスは紫京院ひびきとしてプリパラデビューを飾るまでは不正ログインをしていた模様である。マイチケがあるのだからひびきとして普通に入場出来るのだが、そちらのアカウントでは足跡を残さず目的を完遂し、完璧主義者のひびきらしい。
 Prizmmy☆によるエンディングテーマ「I Just Wanna Be With You 〜仮想(ヴァーチャル)と真実(リアル)の狭間で〜」でも「ヴァーチャルとリアルが交差する世界で」と歌われているようにプリパラはネット空間の隠喩で間違いないだろう。『プリパラ』は元々ゲームなのだからゲームなんだろうと思われるかも知れないが、ゲームのプリパラではひびきのような荒らしが発生しシステムを書き換えることは出来ない。やはりネットなのである。
 アイドルは自分自身を商品化するのが至上命題であり、ファンは商品化されたアイドルを愛でる。この辺りがアイドルとアーティストの違いであり、アーティストは作品を作るのが目的だが、アイドルにとっての作品とは自らを商品化するための手段、道具である。
 商品化されるのは昭和の時代であればステージの上、テレビカメラの前で済んだが、SNS真っ盛りなこの時代、その範囲は私生活にまで及んでいる。もちろんその裁量はアイドル自身に委ねられ、事務所からのNGもあるだろうが、「ここまでは見せる(=商品化する)」という範囲はアイドル自身によって定められる。昼に食ったスイーツだの飼っている犬だの他愛も無いことなら何の問題も無い。
 アイドルを中国語で「偶像」というのはよく出来ており、文字通り偶像である。ファンは商品化された側面だけを愛すれば良いのであり、そうでないところまで覗こうとするのは愚の骨頂である。マリア像の中を見ようとしてほじくった結果マリファナが出てくるようなものである。アイドルは商品化を許した時、場所以外ではどんなに腹黒だろうと、喫煙していようと、立派なうんこをひねり出していようと問題ない。それが表沙汰にさえならなければ、である。その代わり商品化を許した部分では偶像で居続けなければいけない。腹は白いし煙草のにおいなどしないし、うんこすらしない生き物でいなければいけない。それがアイドルとファンの「契約」というものである。その辺をはき違えた輩が度々犯罪沙汰を起こしているのは周知の通りだが、彼らはアイドルの全てが商品だと勘違いし、幻想を育て上げ、破綻する。B'zの「LOVE PHANTOM」に「欲しい気持ちが成長しすぎて 愛することを忘れて 万能の君の幻を ぼくの中に作ってた」という一節があるがまさにこれである。アイドルに限らず物事には表と裏があるものだ。Twitterの表垢で見せている表情だけがその人の全てでは無い。鍵垢にこそ本質が現れているものだが、それを見てみたいと思うのは行き過ぎた行為である。
『プリパラ』は現実とプリパラを分けたことでそういったアイドルの表と裏を描出してみせた。こうした「表と裏」「光と影」「我と汝」的な対照は『プリパラ』のいたるところで見られる。一番わかりやすいのはアロマゲドンであろうか。天使と悪魔を標榜するふたりであるが、実はこれは額面通りに受け取るわけにはいかないのではないかと小生は思っている。まず自称悪魔のあろまであるが、時折見せる優しさや満面の笑みなどは天使そのものである。天使ちゃんマジ天使である。78話で「あ!巨大な肉まんが!」とみかんを引っかけておきながら「空を飛んだりはしてないのである」と騙したままには出来ないあろまは、隠そうとしても隠しきれない天使性がにじみ出ているのである。対して天使役のみかんであるが、人間の七つの大罪のひとつである「暴食(貪食とも)」を犯しているため、堕天使(≓悪魔)である可能性が高い。お互いの素性を隠すために素性とは真逆の振る舞いをしているのではないだろうか。
 みれぃとあろまも対照である。検事と弁護士を両親に持ち、数万条に及ぶと言われるパプリカ学園の校則を生徒に守らせることを信条とし、日々違反チケットを切るみれぃに対し、自ら書き記した膨大な量のア・ローマ予言書を以てそらみスマイルらに立ち向かうあろま。既存の秩序を守る法の番人、言い方を悪くすれば権力の犬と自ら秩序をつくりたい革命家といった構図である。ドロシーとレオナ、らぁらとのん、現実世界とプリパラでのみれぃという風にプリパラはことのほか対照の多いアニメであるように思える。
 世界は一元的なものではなく、対になるものが必ずあるものだということを描いているのだ。アメリカ一極集中によるグローバリゼーションへの批判であり、その対になるものを悪として片付けることへの警鐘である。つまり「対照」的なものはお互いにバランスを取り合って調和する「対称」なのである。