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#どろろ 、#約束のネバーランド 、#ケムリクサ 雑感

2019年冬アニメで観た「どろろ」「約束のネバーランド」「ケムリクサ」の雑感をとりとめもなく、徒然なるままに述べてみる。あくまで雑感なので筋もなければまとまり、一貫性もないのでご了承いただきたい。

どろろ

言わずと知れた手塚治虫作品だが原作は不人気で終わったそうである。

まず小生は同時期に以下の著書を読んだ。

百姓から見た戦国大名 (ちくま新書)

百姓から見た戦国大名 (ちくま新書)

 

これにより、戦国時代の主体は大名、領主ではなく百姓、村であることがわかった。美化されがちなサムライ(笑)だがその実は賊と変わらない。これを踏まえた上でどろろを観ると時代考証がしっかりしていることがわかる。戦略のため村を焼き、下級武士がゴロツキであることがきちんと描かれている。多宝丸や景光の家臣が主君の諱(いみな)である「景光」と呼んでしまっているのは残念であるが、やたら武士を美化して歴史は武士のみでつくられたかのように描く大河や実写映画の類よりは一歩も二歩も先を行っている。

その一方で百姓側に肩入れして武家を悪し様に描いて終わるものではなく、醍醐景光や多宝丸を通じてそちら側の立場も描いている。単純な勧善懲悪ものではない。

作品を貫いているのは手塚らしく「人間とは何か」を問う主題。百鬼丸をピノコと、寿海をブラックジャックと重ね合わせて見た人も多かろう。身体や器官を取り戻していくことで人形のようであった百鬼丸が「人間らしく」なっていく一方で感情が芽生えることによる弊害が露見されてきて、しまいにはどろろに「鬼になっちゃだめだ」とまで言われるに至る。人間らしくあるということは鬼のようになることと表裏一体なのであろうか。

 

白眉は6話で、私娼であるみおが百鬼丸に対して「そんなに見つめられると恥ずかしい」と襟を直すシーンであろう。ある程度経験を積まねばここの価値はわからぬが、これにより本作は文学に昇華した。

 

OPテーマは女王蜂の「火炎」。女王蜂はこれで知ったがノージャンル無国籍感ボーダーレス感があってなかなか面白い。アニソンに足りないのは低音だと思っていたがこれはドープな低音がサビから入っていて素晴らしい。EDテーマはどことなくさだまさし風で映像も良かった。

 

萌え用途としても本作は優秀で、特に百鬼丸のアニキの可愛さが突出していた。無表情で寿海を見上げるショタ時代、どろろと出会ってからの幼児感(相対的にどろろのお母さん感)、「まんじゅ?」の可愛さ、ふんどし一丁のエロさ…小生を少年に目覚めさせるには十分な威力があった。百鬼丸はXJAPANのHIDEに似ている気がするのだがどうだろう(特に口)。

どろろは当初ショタだと思っていたが中途で幼女であることを知り残念に思っていた俺ガイル。髪を下ろしたどろろが姫様の着物を着せられて「これが…おいら…?」とか言ってるの誰か描いてないでしょうか。

まだ1クールが終わった折り返し地点。原作が未完で終わっている本作がどのような結末を迎えるのか見物である。

 

約束のネバーランド

監督が神戸守氏!

神戸氏と言えば小生がかつて熱狂した「エルフェンリート」を監督した方である。

エルフェンリートは「がっこうぐらし!」「ひぐらしのなく頃に」のような一見萌えアニメと見せかけてからのドシリアス展開という「ギャップもの(筆者命名)」の先駆的存在である。

本作も平和で牧歌的な雰囲気から一変しての恐怖展開。1話ラストでそれを提示して以降の緊張感がすごかった。

エマの中の人が諸星すみれ氏なので「シリアスなスター宮」を鑑賞できるというレアものであるwしかしこの人はほんと天才だと思う。

そして伊瀬茉莉也氏とまれいたそという「甲鉄城のカバネリ」コンビ。すっかりノイタミナに愛されている感じだ。

しかしなんと言っても本作のハイライトはシスタークローネの強烈なインパクトであろう。ヤバすぎるw3話で登場して以降この人が全部持って行った感がある。Twitterを見ていても実に愛されていたキャラだ。大人でありながらママと敵対するという第三者的な立場も物語をかき回してくれた。なだけにその死はコニーのときよりも悲しく、喪失感があったのは否めない。

突っ込みどころも多い作品だったが後述するようにいちいち突っ込みを入れながら作品を鑑賞しているようでは駄目なのである。

早くも2期が決定しているが農園からの脱出という山場を終えてしまい、果たしてそれ以上の見せ場をつくりだせるのだろうか? 原作は未読であるが気になるところである。

 

ケムリクサ 

本作視聴者の100割がおぼえる感覚が「わからない」であろう。徹頭徹尾わざとの説明不足に終始し、情報を隠し、謎多きままで突き進む様は、一から十まで説明されないと鑑賞出来ない昨今のユーザーからは特異に映ったことであろう。実際意味不明と言って投げ出した者も少なくない。

これを読者置いてけぼりと見る者もいるがそれはついて行けなかった者の負け惜しみに過ぎない。脱落したならしたで良い。人の好みなどそれぞれだ。楽しめる者もいればそうでない者もいるのは当たり前だ。彼らは自分が理解できないものがもてはやされているのが気に食わず、負け惜しみを放つのである。 

陰鬱な画面、長尺の台詞回しなどと相まって当節粗製濫造される大量のアニメ群の中では一際異質な存在となっている。「売れるかどうか」など度外視し、同人作品のようにたつき監督のやりたいようにやった感があり、商業アニメとしてはかなりの冒険作だ。

つまりは「シリアス版ポプテピピック」であると言えるし、「20年ぶりに蘇ったlain」とも言える。

Serial experiments lainもかなりの実験作で前衛的で意味不明であった。しかしながら何故か見らさる(北海道弁)魅力があり、今なおカルト的人気が、特に海外において顕著である。ケムリクサも意味不明なのに何故か見てしまう不思議な魅力があった。 lainとの違いはケムリクサは商業的にも大成功しているという点である。売れない要素満載にして売れているという偉業にはただ脱帽するばかりである。

 

そんな謎だらけの作品だけに考察班の活動がめざましいものがあった。5chやTwitterを眺めていると実に様々な考察群が発生し、互いに集合知を形成していた。 

けもフレのときにも見られた現象だが、それとは比較にならないほどの謎の多さゆえにより一層混乱を招き、逆に盛り上がっている。

ではそういった考察班だけが楽しめる作品なのかと言えばもちろんそうではない。むしろその対極にこそ本質はある。

江戸時代の国学者本居宣長は、「中国文明に特徴的であると宣長の考えた、物事を虚飾によって飾りたて、様々な理屈によって事々しく事象を正当化したり、あるいは不都合なことを糊塗したりする、はからいの多い態度」を「からごころ(漢意)」と称して批判し、それに対して日本人が古来より持ち合わせている、善も悪もなくありのままを受け入れる「やまとごころ」を取り戻すべきだと主張した。

ケムリクサもまた「やまとごころ」で捉えるべきである。わからなくていい。わかろうとしてはいけない。「考えるな、感じろ」の金言通りである。

ただ、ありのままを受け入れるのである。

景光の諱を家臣が呼ぶのはおかしいとか、あんなハンガーでロープを滑っていけるわけないだろ子供の握力じゃ落ちるだろとか突っ込みながら見てはいけない。

そういう世界なんだと思えばいいのである。

感想なんて「そーなのかー」でいいのだ。

現実世界において太陽が東から昇ることに疑問を持つ者はいないだろうし、持っても意味が無い。そういう世界なんだと思うのが普通である。

   

ケムリクサは不自然な説明を排除したことで、視聴者をもその世界に取り込んだ。視聴者はわかばのように突然この異世界へ放り込まれたのである。現実世界から異世界を眺めて説明を求めるのではない。ならばわかばのように素直に世界をとらえ、へーすごいなーと言っていればいいのだ。 

 

ともかくも時勢に迎合すること無く逆らい、視聴者にも媚びず、やりたいことをやってなおかつ支持を得、KADOKAWAへの意趣返しを果たしたロックなたつき監督には賞賛を送りたい。よくやった。ありがとう。こんなギャンブル性の強い作品にGOサインを出したプロデューサーや出資者サイドの度胸にも感服である。

マリリン・マンソンのマリリン・マンソンも「他人に評価されるためになにかをやっても駄目だ」と言っているがたつき監督にはそんな打算は無かっただろうし、ファンも監督がやりたいようにやるのを望んでいた。実に素晴らしい関係である。

 

蛇足 

小生はテレビを持っていないのでアニメはネット配信で観るのだが、上記三作品はすべてAmazonプライム独占配信であった。最近はプライム独占配信のアニメが増えてきており、dアニメストアが窮地に立たされている。ここはひとつネトフリのようにオリジナルアニメをつくってはいかがであろうか…。

 

 

 

ロリコン探偵仁とニック1

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