紀貫之二次オタ説
最近「古今和歌集」を読み始めた。
これの序文(仮名序)が非常な名文であるので物書きの類いは是非原文で繰り返し読むことをお勧めしたいのだが、その中に気になる一節があった。
この序文の中では歴代の歌人がディスられているのだが、そのうちのひとつに
僧正遍昭は、歌のさまは得たれども、まことすくなし。たとへば、絵にかける女を見て、いたづらに心をうごかすがごとし。
とある。
僧正遍昭は歌の姿は備わっているが、現実味が無い。たとえるなら絵に描いた女を見てむなしく心を動かすようなものだ。
と言う意味である。
現代オタクが見たら噴飯物であろうが、よく考えてみていただきたい。
この序文の作者である紀貫之(きのつらゆき)は絵に描いた女を見て心を動かしたことがあるからこそこんなことを言っているのではないか。
そんな経験があるからこそむなしいと言えるのではないか。
他人がそうなっているのを見てそう思った、という線はないのではないか。何故なら二次萌えしている姿など人に見せるものではないし(リアルで)口にするものでもない。
やはり自分自身のことを言っているのだ。キモオタがキモオタをディスるのはよくあることだが、同じことが1100年以上昔の平安時代においても行われていたのだ(名推理)。
妹とファックして夫婦になってしまったイザナギ以来、日本人はDNAレベルでキモオタなのである。