「ひとりの作家にはひとつのジャンルが有利だ」に対する反論
先立ってTwitterにて氏のこのような言説を目にした。
ひとりの作家にはひとつのジャンルが有利だ。同じ名前で多ジャンルを書くと客がつきにくい。善し悪し関係なく、以前書いた別ジャンルが足を引っ張るのだ。多分ジャンルひとつごとに別ペンネームを持つのが一番正解なのだろうと思う。(無理
https://twitter.com/AyaYang/status/1034116003418914817?s=19
これには予はどうしても首肯しかねるのである。
例えば予の好きな作家に筒井康隆氏という人が居る。
氏は純文学からSFからミステリー、ホラー、ショートショート、ナンセンスギャグ、スラップスティック、果てはラノベまで広範囲に渡るジャンルを網羅した多作家で、独創性あふれる実験小説の書き手としても知られる。確かにあの有名な「時かけ」から入った者が必ずしも「郵性省」や「ダンシング・ヴァニティ」なども受け入れられるとは限らない。
予の好きな漫画家に押切蓮介氏がいる。
氏は「ハイスコアガール」でブレイクした感があるがぽっと出の馬の骨ではない。「でろでろ」「ツバキ」「サユリ」「ミスミソウ」「プピポー」などキャリアに比して実に多作な漫画家で、作品ごとの毛色も一篇通りではなく、俗に「白押切」「黒押切」などと言われるがごとく対照的な作品を発表してきている。キャッチーなコメディもあればダークでシリアスな鬱漫画もある。「ハイスコアガール」から入った者が「ミスミソウ」を受け入れられるかと言ったら必ずしもそうとは言い切れない。
しかしながら予は筒井氏も押切氏も好きだ。筒井氏の○○(作品名)が好き、とか押切氏の○○(作品名)が好き、ではなく、作家としての筒井氏が、押切氏が好きなのである。
恋と同じで一度そうなってしまうと内容が云々などは二の次で、ただその人の作品に浸っているのが快感になってしまう。正直に云うと予にも筒井氏、押切氏の作品でもイマイチだと思うものはある。だがそんなことはあまり重大なことではなく、貪るように彼らの作品を読み漁った時期があった。もっと別の筒井が、まだ見ぬ押切が見たくてほとんど中毒患者のようにして味わい尽くしたのである。
これが作家の「客」というものだ。引用したツイートで云う「客」というのは「ファン」ということであろうが、ファンとはそういうものである。
同じ作家でもAという作品は好きだがBは嫌い、というのはあくまで「Aという作品が好きな人」であってその作家のファンではない。そういう人はジャンル違い云々以前の問題でその作家のファンにはなり得ない。
ジャンルを変えたからファンが離れた、というのは誤りである。それはファンではない。作品のファンであって作家のファンではないのだ。
宮部みゆきや夢枕獏なども多ジャンルにわたる作家であるが、彼らにファンはいないのであろうか? そんなわけはない。
一方で予は石黒正数氏の「それでも町は廻っている」が好きなのだが同氏の他の作品は最後まで読むことすら出来なかった。予は「それ町」のファンであってこそすれ石黒氏のファンではなかったのである。
世の中のほとんどは作品のファンであっても作家のファンではないという人たちである。そんな中で作家のファンになってくれる人は希少であり、文字通り「有り難い」存在だ。彼らはジャンルが違ったからといって見捨てるようなことはしない。ジャンルではなく作家の本質を見ていてくれている。
そんな生涯の伴侶にも似た貴き存在を得られなかったからと云って、それを「ジャンルが違ったから」というせいにするのは責任転嫁であって現実逃避である。
若し「ポール・マッカートニーがラップをやった」とか「icecubeがメタルのボーカルを務めている」とかになったら予なら聴きたくてしょうが無い。彼らのファンであるから。
余談であるが予のペンネームの一字「樫」の元ネタになっているほど傾倒している漫画家kashmir氏も複数の作品を残しているがその全てがギャグ~コメディである(「てるみな」は微妙なところではあるが)。だからこそ氏のシリアスものを見てみたいと切に願うものである。